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通行人さまへの応答を通して ~空間の「私物化」と「排除」について~

通行人さま

コメントありがとうございます。

> 公共の公園を私物化する働く意思のない連中は外国でも出稼ぎしろよ

いただいたこのコメントの中に、いろんな要素が入っているので、一つずつお話します。
私が思う範囲で。


「公共の公園を私物化する」と言うのはどの状態を指しているのでしょうか。
公園内に、アート作品が展示されていたこと?テントが建てられていたこと?
そうですね。確かに、公園内に何かが展示されていたら、違和感や嫌悪感を抱かれるのかもしれません。
テントがあったら、なおさらそうですよね。邪魔だと思われるとしたら、尤もだと思います。

私は、テントを建てた者ではありませんが、テントを建てずにはいられなかった気持ちは、とても強く共感しています。
宮下公園には、今年の3月あたりから、いつフェンスが設置されて封鎖されてもおかしくない状態になっていました。
渋谷区やナイキジャパンは、宮下公園のナイキ化反対という声には耳を傾けようとしなかったので、フェンスを張らせないようにすることで、反対表明がなされていたという状態ではあったと思います。
それが居座り(スクウォット)であり、それによって、ナイキ化を阻止し続けてきた半面、多くの人に「近寄りがたい」と思わせることにつながっていたとも思います。
反対派の人たちは、そのこと自体に矛盾を感じ、葛藤をしていたように、私には見えていました。
常に、たくさんの人が集い、オープンにしていくにはどうしたらいいかを考え、イベントを企画したり、お茶飲み場を設置したり、今の宮下公園の情報を発信することを積極的に行ってきたように思います。

しかしやはり、少数のひとによる反対の意思表明は、多数のひとの無関心に押しつぶされ、押しつぶされるのを免れたとしても、その時には多数派の人に不快感を催させます。
通行人さまが感じた感覚はそれに近いものではないかと想像します。情報が少ないので憶測にすぎませんが。

もし、テントや公園内の展示物、イスやテーブルに違和感を持たれたなら、考えてみてほしいと思います。
ナイキ化されるということは、これ以上のことが起こるということでもあります。
名前に「ナイキ」の企業名が冠されることで、多くの人が、「ここはナイキのものなのだな」と認識し、
ナイキに親和性のある人、ナイキの商品を買う意思のある人、消費欲のある人だけが、そこを利用しようかな、という気になる。
お金のニオイのする空間は、そもそもお金と関わりたくないという気持ちや時間を駆逐してしまいます。

また、宮下公園内にテントや展示物が出現したり、「野宿者がいる」ということで違和感を感じたのなら、その感情がどこから来るのか、そしてどうしたらなくなると思うのか、を考えてみてほしいと思います。
そこには、排除の欲望があるのではないでしょうか。
こんな汚いものどもがなくなれば、平和な公共空間が広がるのに――と。
排除することによって訪れる、安心な空間なんて、あるのでしょうか。
それはいったい、誰にとっての、安心な空間なんでしょう。

誰かにとって安心・安全・居心地の良い空間がそこに存在している時、その空間を維持するために排除された人は、不快感・疎外感・嫌悪感を持ち続けることになります。
宮下公園内のテントや展示物は、そんな「排除された人びと」の不快感・疎外感・嫌悪感が昇華されてできたものだったのではと思います。
もし今回、そんなテントや展示物にあふれた宮下公園に対して不快感を抱いたとしたら、
逆に、普段、誰かが不快感を感じていていもそれを表明できずに抑圧されて(して)きたことや、
誰かの不快感の上に自身の快を得ていたことを知るきっかけになったのではと思います。

一部の人が安心・安全・快楽を享受するために、少数の人が排除され、不利益を被ることに、私は腹の底から反対します。



次に、「働く意思のない連中は外国でも出稼ぎしろよ」ということですが。

どんな意味であれ、「働く意思がない」「働かない」ひとを軽蔑するような表現は非常に暴力的だと、私は思います。
また、例えば宮下公園で寝泊まりしている野宿の人たちを排除してほしいという言葉や侮蔑のことばに対して暴力性を感じるのと同じぐらい、
「好きで野宿をしているわけではない」「ナイキ化の前に野宿者支援をすべき」という論理にも
「野宿の人はできるだけ公園にいるべきでない」という意見を前提としてしまう、
ある種の「線引き」「排除」のニオイをかぎ取ってしまいます。
どんな人であっても排除されない場所。そういう、暴力的な視線を否定する場所として、
公園が存在していてほしいと、私は願っています。



では、宮下公園のナイキ化反対運動を通じて、「暴力的な視線を否定」し、
誰もが安心していられる空間を作り上げられてきたかというと、
残念ながら、まだまだ、どころか、始まったばかりであったと思います。

というのも、
「安心」「安全」は「自分の不安や嫌と思う気持ちを封じこめられないこと」がまず一歩だと思うのですが、
運動をしている人たちの中においても、個々人の不安や嫌と思う気持ちは、
運動という目的・大義の前に、表わすことができなかったと思うからです。
もし表わしたとしても、
「そう感じるのはあなただけかもしれない」「それはそうだけど、今はしょうがない」
「あなたも嫌だと感じたかもしれないけど、こんな話をされて私も嫌な気分だよ」
などなどの反応が来て、それ以上の声が上げられなくなってしまいます。

公共空間にはしばしば、「自由」「公共」の名のもとに、他人を不快にさせる言動・表現が横行し、
また、公共空間の「自由」な雰囲気を維持するために、
「排除」やそれと裏腹の「保護(庇護?)」が現れてきたりしています。

このような、「自分の不安や嫌と思う気持ち」を封じ込められてしまう、という状態は、
なにも宮下公園という空間に限ったことでも、宮下公園のナイキ化反対という運動に限ったことでもありません。
どこの公共空間にも存在してきたし、
そういう公共空間での抑圧的な風景への対処は、「保護」や「私有化 privatization」によってなされてきたと思います。
たとえば、女性は他の男性からの暴力から身を守るために、特定の男性の保護・扶養の下に身を置くことが望ましいと思われてしまうように。

異なる声――たとえば、不安がる、怖がっている、いやという――が聞こえてきたとき、
まずそこで耳を傾けられるだけの、
または、保護されることもなく、排除されることもなく、
それらの感情・湧き上がる声を抱いたときに、それを伝えられるほどの、
「安心な場」が存在していてほしいと、私は思います。
ただそこにいられるような場所が、 あってほしいと願います。
公共空間にも、運動内にも。

宮下公園では、「暴力について考えたい」という友人どうしで、安心な場を作っていけるためのワークショップが毎週続けられてきました。
そしてそれは、今でも続いています。


運動によって、公園が「占拠される」という状態は、私が望む状態ではないと思っています。
同じく、ネーミングライツや一部の人たちの安心や欲望のために、誰かが排除されるのも、おかしいと思います。

通行人さまの伝えたかったおもいを、私が十分に汲みとれたかわかりませんし
まだ言い尽くせてないと感じることもたくさんあるのですが、取り急ぎ。
公園が、公共空間が、言論空間が、「占拠」されるということを、
いただいたコメントを活かして、考えたいと思います。
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臥蛇

Author:臥蛇
家族や沖縄、社会学や身の回りの現象に関して、日々悶々と考えつつ生きてます。

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