昨日は、ある本の書評会に行ってきた。
。著者は、親しくしていただいている、友人お二人だ。
お二人とは、知りあって1年ほどになる。
この書評会が開催されたのと同じ研究会において、
私も6月に『おきなわ女性学事始』の書評を行ったのだが、
そのとき、お二人は私に、とても温かいお言葉をかけてくださった。
先々週の土曜日は、お二人の出版記念パーティーにも行ってきた。
(お二人に「愛ちゃん」と呼ばれるのが、実はとても嬉しかったりする。)
本を読み進めていくうち、驚きが次々に襲ってきた。
著者の綾屋さんが書いていた、綾屋さんが体験している感覚が、
私も体験していたり、それがもとで悩んでいたりするものだったからだ。
たとえば、私は時々、人が何を言っているのか聞き取れない(というか、理解できない)ときがある。
音は認識しているのだが、何を言っているのか、意味がわからないのだ。
それと、声が氾濫しているようなところでは、一つの音に集中することができない。
綾屋さんが「ヒトリタイワ」「シュトコー」「エイエンモード」と呼ばれる現象は、
程度は違うのだろうが、私にもよく現れるな、と読みながら感じられた。
私は人にたやすく同調する。その人のことを知らず知らずに真似ているのだ。
極端なのは、字体だ。
中学・高校時代から、授業ごとにノートに書く字体が変化していた。
黒板に書かれる先生の文字に「感染」しているからだ。
これらは、すべてこの本の中で、緻密な分析とともに記述されていた。
しかし、私は一方で戸惑っていた。
この「わかる」感覚を、どう理解したらいいのだろうか。
「わかる」と言ってしまうことで生じる抑圧性を、どのように回避できるのだろうか。
「わからない」と言ってしまうことで生じる抑圧性も、どのように回避できるだろうか。
「わかる」と言うことで生じることは、2種類ある。
ひとつは、その人と体験・感覚が共有できるという安心感が生まれること。
もうひとつは、「わかる。だからあなたの体験は他愛のないものだ」と
内容そのものが、蔑ろにされること。
「わからない」と言うことで生じることにも、2種類ある。
ひとつは、その人と体験・感覚を共有できない・しないという境界線を引いてしまうこと。
もうひとつは、「やっぱりわからない、だからあなたは変だ」と、
内容もその人も蔑ろにされること。
なのでやはり、「わかる」ということの方がメリットがあるのかもしれない。
しかし、内容そのものが蔑ろにされる、蔑ろにされたと思われる危険性は自覚しないといけないだろう。
「わかる」けれど、「わからない」部分もある。
アスペルガー症候群から「普通」と言われる人たちまで、人はグラデーションで存在している。
もちろん、アスペルガー症候群のなかでも、人はグラデーションのように存在している。
私たちは、つながっている。
しかし、「アスペルガー症候群」「脳性マヒ」当事者の人たちは、
「アスペルガー」や「脳性マヒ」を引き受けなければならない。
(綾屋さんは、それを「降りられない覚悟」と言っていた。)
当事者と非当事者の線引きはそこなのだろう。
(上野千鶴子氏も、「当事者のインフレをなくす」と言っていた。)
一方で、自分が「当事者」か「非当事者」かを
漠然とながら感じ取れる、という現実を、
もう少し、自分の感覚に向き合いながら、
緻密に見ていきたいと思う。
名前をつけてしまうと、そこには一枚岩のように存在する集団が立ち現れるように感じられてしまう。
そして、その対極にある集団を立ち上がらせてしまう。
しかし、私は、どちらの集団にも違和感を持つ。
「全くわからない」わけでも「正にそれ」というわけでもないからだ。
では、私のこの感覚、私の存在はどのように捉えたらいいのだろうか。
私は今後、どのように振る舞えばいいのだろうか。
境界人としての私は、そこで悩んでしまう。
(「境界人」という言葉は、私の周りにいる在京の沖縄出身の人たちの間で使われている。
「境界人」と名前をつけてしまうこともまた、実体を伴う何かを立ち上がらせてしまうので、いやなのだが。)
「期待された振る舞い」はその人の属性に帰属しているものだと思う。
振る舞いはすべて、コード化されているのだ。
私は、どのように振る舞えばいいのかわからず、立ち尽くしてしまう。
それは、私の今後の課題なのだろう。
「○○当事者でないが、多くを共有する私」の存在そのものや立ち居振る舞いについて、
考え、思考錯誤していくことが