今日は、琉球・沖縄研究所の公開講座「沖縄学」
…の後のお食事会にお邪魔した。
講座には出席できなかったので、
お食事会の最初の場面において、あまり議論に参加できず、
私は箸とペンのみを動かしていた。
(ペンを動かしてたのは、みなさんが話している興味深い論点を
書き留めるためにだ。)
そこで行われていた議論がとても面白かった。
多岐にわたっており、雑多になるかもしれないが、
論点を整理しながら、私の考えも記しておくことにする。
なお、書く順序は、
時系列順ではなく、私にとって強烈な印象を持っている順、なので、
今日の沖縄学の講座の内容とは全く関係ない。
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◆論点整理の前に (お食事会を終えての自己分析。雑感。)
◇私が雄弁になるとき
私には、雄弁になるときと黙りこくるときとがある。
それがどういうときなのかが、今日よくわかった。
雄弁になるときは、議論の最中に、自分が以前に思考していた内容が
思いだされて、洪水のようにあふれ出てくるとき。
それだけでなく、
いつもはそこで「私なんかがしゃべることじゃない」と思って黙ってしまうのだが、
「私がここでしゃべってもいいんだ」と思え、
自分の言葉を遮る「自信のなさ」が取っ払われると、雄弁になる。
寡黙になるときは、
誰かがしゃべっているその内容に出会うのが、まったくの初めてで、
思考が全く進まないとき。
もしくは、上記のように、
「自信のなさ」が自分のあふれる言葉を遮るとき。
雄弁になるときは欠点があって、
自分のしゃべりに酔っているために、他の人の反応のうち
自分に好意的なものしか覚えていないこと。
それと、あとになって、
雄弁になったことに対して、恥ずかしさと激しい後悔を感じてしまうこと。
◇場面の思い出し方
その時の場や雰囲気、その人の話し方などの、空間・場の印象を思い出すと、
議論の流れ・その時の自分の思考を思い出すことができる。
◇思い出した内容を書き留める際に思ったこと
思考の流れは、とてつもなく早く、
書き留めることはとてつもなく遅く、もどかしい。
書き留めるときになって、思考がほぼストップしているので、
思考しているときの興奮がすっかり冷めてしまうときが多々ある。
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◆今日の講義の感想を言い合う場面からの展開
今日の講師のMさんが、「みなさんの講義の感想が聞きたい」と言ったので、何人か話し始めた。
K=I先生が、噛み締めるように話しだした。
「今日の講義は、とてもわかりやすかったと思います。人類館に絡めていたのがよかったですね。」
そして編集者の方が話した。「私は沖縄出身ではないので、今日出てきた沖縄弁を、クールな言語として憧れをもって聞いていました。やっぱり、沖縄出身でない者は、作られたイメージでしか想像できないです。手を替え品を替え、というのは、やはり沖縄出身の人しかできないんだなあと思いますし、それをやってほしい、と思います。」
それを聞いて、M氏は、「なるほど。その『クールな沖縄語』ということについては、知念ウシさんとか反応しそうですね。彼女は、観光客に自分の父親の葬式をビデオカメラに撮られて、『やめてください』って言ってもやめなかった時のエピソードを、繰り返し語っているんです。外からの視線に対して、とても敏感に反応しますよね。あと、○○氏(瀬戸内海に面する某県にいる沖縄研究者)も。」と答えた。
◆怒りを原点とした研究
その沖縄研究者に、私は、書評を兼ねた批判をメールで送ったことがあるのだが、その後彼から送られてきた返事を読んで、その研究者がまともに私の批判に取り合わなかった印象を持ったことから、怒りが沸沸と湧いてきた、というエピソードを話した。
その時の私の怒りは、私の指導教官が「女性学は学問なのか」と言われた時に感じた怒り・悔しさと同等のものだと、私は理解している。それを単純化して言うならば、「バカにされた悔しさ」であるが、もっと詳しく言えば、「さまざまな対になっているカテゴリー(例えば、男と女)のうち、下位に位置する者として扱われたことに対する悔しさ・怒り」である。
上記のような、私の怒りについての説明に対して、今日の講師であるM氏は、とても柔らかく、でもしっかりと「そのような説明によって、差異を本質化することは、あまりいいことではない」と諭してくれた。「彼が差異を本質化したのではなく、臥蛇さんが差異を本質化していることになってしまうよ。だって、彼が本当に、たとえば女だから臥蛇さんをバカにしたかどうかはわからないわけでしょ」と。
なるほど、と思ったし、M氏の指摘から、またしても私は「相手を批判しているようで、実は自分が批判している相手は自分だった」という状況にいるんだなーと感じ、落ち込んだ。しかし、その場にいた編集者は、「私も、この状況にいれば、臥蛇さんと同じように怒りを持つと思う。相手が本当にどう考えているかはその時はどうでもよくって、臥蛇さんが感じていることから出発することが大事なんだと思いますよ。」と言った。
そして、K=I先生もまた、「臥蛇さんの怒りはとても大事だし、そこからしか思考は生まれないんだと思う。そのあなたの怒りを、うまく言語化してごらんなさい。それこそ、Mさんが言うように、『知的に』。あなたの先生(私の指導教官のこと)も、そのようにして理論化していったんだから。○○さん(件の沖縄研究者)は、直線上に自分とあなたを配置して、『もっと勉強して、僕のところにおいで』という風に言って、議論を引っ張っているのは自分だと思っているかもしれないけど、議論というのは特定の誰かが常時牽引しているものではなくて、あなたが反応して言語化することで、あなたを説得するために、その直線が曲がって輪のようになって、だれが議論を牽引しているかわからなくなるものよ。だから頑張って。」とおっしゃった。
それから、Mさんも、「そう。浜本満っていう人や□□(←忘れた)っていう人のように、怒りという感情を原点に据えることは大事だと思う。だって、この人たちみたいに考え抜いて緻密に論理だてていっている人は、自分の感情を整理するために言語化するしかないんだよね。その結果、素晴らしい理論化をしているんだから。」と言った。
あまり関係ないとはいえ、私の怒りの話から始まって、その文脈で私の指導教官や浜本氏が出てくるなんて、なんだか恐れ多くて縮こまってしまう…。
◆思考の原点 −思考は真空から生まれず、相手の発言に対して反応することで生まれる。
「それにしても自分は、相手がどう思っているかを出発点としていつも物事を考えているんだなーと思います。だって、『○○氏(件の沖縄研究者)は、私に対して〜と思ったはずだ』と考えることによって、怒りを感じているわけですから。」と私が言った。
すると、W大学の友人が、「そういう風に、相手がどう思っているかを考えながら行動するって、大人だなーと最近思います。だって、子どもって、自分がやりたいことを、周りのことなんか考えずに突っ走ってやっちゃうじゃないですか。でも大人って、相手が何を考えているか、どう思っているかを考えて行動できますよね。これって、子どもと大人の違いだと思います。」と言った。
しかし私は、どんな人の思考でも、繋がっていると感じている。だから、子どもと大人の考え方の違いも実はそれほどない(程度の差はあるのかもしれないが)、と思っているので、こう反応した。
「私は、相手がどう考えているかを考えながら行動する・思考することに関しては、大人も子どもも同じだと思う。思考って真空で生まれるものではなくて、他者に反応することによって生まれるものだと思うから。他者の思考を出発点にすると『オリジナリティがない』とかよく言われるけど、−例えば、就職活動とかでオリジナリティが問われるけど― それをオリジナリティの有無の議論に落とし込むことってとてもナンセンスだと思う。」
すると、編集者が言った。
「確かに、企業の言うオリジナリティって胡散臭いですよね。だって、オリジナリティったって、なんでもありなわけじゃなくて、企業が求める範囲でのオリジナリティですもんね」
◆既存の枠組みと、自由な行動との関係性 −「ルールが存在したほうが、自由に行動できる」
この、編集者が言った「企業が求める範囲でのオリジナリティ」という言葉で、私は、以前このブログで
「ルールが存在している方が、自由に行動できる」という記事を書いたことを思い出し、そのことを話した。
「『企業が求める範囲でのオリジナリティ』にも見られるように、あることが制度化されている場面では、ルールというか、枠があるんですよね。例えば、少子社会の中で、子どもをたくさん生んでほしいと言いながら、結婚していない女性が産んだ子どもは歓迎しない、ということもそうですよね。そして、その枠においては、実はある部分、その中で動いていた方が自由に動けていて、その枠を否定しているときのほうが却って、その枠を否定するのにこだわってしまって、自由に動けていない部分があると思うんです。」
「確かに、枠を否定するために、かえって内面化する場面ってありますよね。それは確かに自由じゃない。他方で、枠内で規範通りに動いていた方が楽という場面も多いですよね。それでも私は、空想上においてでも、その枠がない状況に憧れてしまうなあ。枠がなくなった状態を想像することによって、私の精神衛生が保たれているような気がするもの。そうじゃないと、私のメンタル的な健康が阻害されて、やっていけなくなっちゃう。」と編集者は反応した。
それに対して、私はこう答えた。「そうですね。自由とは何か、という問題と、誰にとって有益な枠なのか、という問題がそこにはあると思います。その枠が有益ならば、枠があった方がいいのだろうけれど、枠があることによって不自由さを感じるのであれば、それはない方がいいに決まってますよね。で、どこを目指すかによって、方向性がちがってくると思います。というのは、『誰もが自由に動けるような枠を創造することを目指す』のか、『誰もが枠を相対化できるような仕組みを作る』のか、という目標の違いがあると思うのですが、私は、きっと、後者なんだろうな、と思います。枠があることによって、マイノリティとマジョリティが存在することになりますよね。この状態から、『マジョリティ』と呼べる存在がいなくなるほど、枠が一つの選択肢のひとつとして存在するような状態にすればいいのだと思います。」
そしてこうも付け加えた。「それと、もう一つの問題点に、『誰のために、既存の枠組みを相対化するシステムを作るのか』ということがあると思います。」
私が弾丸のようにしゃべり続けている間、K=I先生は深く深く頷いていた。
◆怒りへの対処法 −「自分は相手より優位だ」と思うことと、そう思うために必要な考え方
相手の反応に対して怒りを持つことはいいが、そのことに対する対処法について、芸術家が話した。
「相手の言うことに対して真っ向から反応してしまうと、相手の言うことを一旦引き受けてしまうことになって、自分が劣位にあることを認めてしまうから、そういうときは、『ああ、結局私のことが好きなのね』ということに落とし込めばいいんだと思う。相手の発言をそう捉えることによって、自分が相手より優位だと思うことができるし、相手の言うことを真っ向から相手にせずに逸らすことができて、自分のダメージも少なくすることができるんじゃないかなあ。」
そのことに対して、その場にいた琉笛奏者が言った。「うーん。その考え方にはちょっと反対かな。だって、相手に対して優越感を持つってことでしょ。それって自分も、相手と同じように、相手のことを見下しているってことになるよね。」
その琉笛奏者の言葉に続けて、私が割り込んだ。
「そうですよね。それに、真っ向勝負している時点で、もう自分も相手に対して優越感を抱いていることになっていると思うんですよ。だって、真っ向勝負するってことは、『あんたの言うことは違う。私はこう思う』って、相手の考えよりも自分の考えの方が優位だってことを前提としているわけですから。そう考えると、優位性を保つためならば、『結局私のことが好きなのね』と思うよりも、真っ向勝負したほうがいい気がします。それに、相手の話を逸らすと、自分の怒りも裏切るような気がして、結局真っ向勝負した時よりも摩耗するんだと思います。」
芸術家は答えた。「そっかー。私は今まで真っ向勝負してこなかったなあ。真っ向勝負したら、そのダメージが大きくて。」
私は言った。「あ、でも、結局、私は悩んでいる自分が好きなだけなんだと思います。」
Mさんをはじめ、私のナルシスト発言に、「何だその展開〜!」と爆笑が起こった。
「いえ、本当に。真っ向勝負して、怒りを抱いて、悩んで、考え続けている自分が好きなんです。」
それに対して、芸術家は「私は、そんな悩んでいる臥蛇さんが好きですー。」
また爆笑。
でも真顔で私は言った。「でも、真っ向勝負したり、悩んだりするのって、結構しんどいし、かなり疲弊するし、下手すると死の方向に思考が向かうこともありますから、独りで悶々と考えるのならば、相手の発言を逸らした方がいいのかもしれません。真っ向勝負したり、悩んだりするためには、一人でもいいから、自分の考えを共有できる、または自分の考えを聞いてくれる人がいたほうがいいですよ。」
◆「感情を感じなくなると、考えなくなる」
琉笛奏者が言った。
「でも、臥蛇ちゃんみたいに、それだけの怒りを持てるって、ほんとにうらやましいわ。最近、全然怒りとか感じる機会がなくって。怒りとか感情って、本当に大事だよ。だって、感情を感じなくなると、何も考えなくなるもん。」
急いでこの名言をメモし出した私に、また爆笑が。
◆「知的に考える」とはどういうことか −Mさんのすごさと言語ゲーム
K=I先生が、沖縄学講座をやるにあたってのご自身の思いをこう述べてくださった。
「私は、沖縄学をやるにあたって、今までの沖縄研究者と呼ばれる外の人たちが作り上げてきた沖縄のイメージを、どうにかして打ち破って相対化したい、と思っていたのね。でも、その作られた沖縄像にがんじがらめになる自分もいて。それで、模索しているときに、彼(M氏)がすい星のように現れたの。彼は、本当に、言葉の宝庫よね。何しろ現象を言葉にするのがうまいし、すぐに『〜は誰が…と言っていた』という風にパッと出てくる。
…基本的にゲームが好きなのよね。研究者は。対象を一言でうまく言い表して。でもそれは、ひとつのイメージを作り上げてしまう。それが今までの研究者の言語ゲームだった。だけど彼(M氏)は、ゲームは好きなんだけど、今までの研究者とは違って、ゲームの外の現実を知るために、ゲームをしているわけ。つまり、『これはゲームなんだ』っていうことを、わからせてくれるようにゲームを展開しているわけね。私は、ああ、こんな方法があるのか、これで沖縄の風通しが良くなる、って思ったのよね。どこか別の外の世界につなげることができる、と。そうすることによって、「モノ」ではなく「コト」である「おきなわ」を見ることができるのではないか、と。そう思ったのよね。」
この、先生が語るMさんのすごさは、私との違いだな、と強く思った。
私は、本を読まない。読んでも頭に入らない。誰が何を言ったかなんて、それこそ「勉強」しないとわからない。それは私の大きなコンプレックスだ。でも、いつでも頭に入らないわけではない。私が求めている情報であれば、どんどん頭に入ってくる。求めている情報とは、私の思考に沿った議論・情報のことだ。一度自分の頭の中で議論したことのある内容のみが、スムーズに頭に入ってくる。しかし、このように、思考が情報に先行し、情報は事後的に頭に入ってくるために、私が何かを思考してしゃべるときには、情報による裏付けをすることができない。下手すると、自分の考え方に酔ってしまうのだが、実は誰かによって先に言われていることだったりするのに、それに気付かないことがある。
だが、M氏は知識の宝庫だ。以前に誰が何を言っていて、それはどの文脈で言われていることなのかを、自分のしゃべっている内容に、すぐに結び付けることができる。自分のしゃべっている内容のみならず、相手がしゃべっている内容までも、別の誰かの言葉・表現で言い直す、いわば引用による裏付けをすることができる。
別の誰かの引用ができる、ということは、その議論の行く末・方向性・問題点までもわかっているということだ。その上で、「自分の言葉で」議論するのである。それが、口頭における議論の場でできるのは、やはり「能力」というべきものだと、私は思う。知識を自分のものにし、生きた情報として再生産させる能力、K=I先生が言っていた「言語ゲーム」の能力は、限られた人しか持ちえないことなのだと思う。そして、この「言語ゲームを展開させること」が、「知的に思考すること」なのだ、と私は思った。
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他にもいっぱい書きたいことがあるのだが、
思い出しつつ、思考しつつ書いているので、思った以上に時間がかかり、ちょー眠いので、
論点だけを書いておく。後日また書きなおすことにする。
◆「世界はこんなにつまらないはずはない」
◆ある言語を使っている人が一人でもいれば、そこに共同体が存在する。
◆対面コミュニケーションには緩衝作用がある。
◆感情と経験
◆2ちゃんねると人類館 −「第3者の審級を立ち上がらせる。」